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大島石
徳川家康が藤堂高虎に、伊予の国今治への築城を命じたことから、高虎は大阪城築城で腕を磨いたとされる石積名人・治衛門を今治城築城の際に石積棟梁の1人に任命し、城は慶長9年(1604年)に完成しましたが、彼らは石垣だけでなく秘密の抜け穴も造ったの...
で、藩主より情報漏洩を封じるための処刑命令が出されました。その難を逃れた治衛門は大島に辿りつき、そこに良質の花崗岩が埋もれているのを知り、自らの技術を生かして切り出したのが、大島石のルーツであると言われています。 大島でのみ採石され、古くから堅牢で美しい石材として知られていましたが、高度な採石技術、搬出技術が必要となる為、一般的な知名度はそれほど高くはありませんでした。しかし明治時代~昭和時代頃には日本でも採石技術が進歩し、もともと石材として特徴的であった大島石が世間の脚光を浴びるようになりました。日清戦争に備えていた明治27年(1894年)広島県呉市の軍港の整備、明治42年(1909年)完成の大阪市の心斎橋、明治44年(1911年)には京都の四条大橋、七条大橋、その他にも国会議事堂、赤坂離宮、日本銀行、出雲大社大鳥居、東宮御所、などの著名な建造物で使用され、墓石としても司馬遼太郎や正岡子規など著名人のお墓にも多く使われたことから、歴史の重みを感じる事が出来ます。 宮窪町は石採掘の歴史が400年もあり、石文化運動公園、石文化伝承館などの施設があります。
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