1ニコニコ観光

しまなみ海道 ④来島海峡~今治城跡

12

今治城跡

築城の名手といわれた藤堂高虎によって築かれたお城で、高虎はこの地に来る前に宇和島城に居城していましたが、関ヶ原の合戦で徳川方について活躍した功績により徳川家康から伊予の国の半分、二十万三千石という大きな禄高(ろくだか・江戸時代の武士への報酬...

)を与えられ、宇和島から国分寺近くの唐子山にあった国府城に入城しました。しかしその地は発展性に乏しいと判断した高虎は、瀬戸内海に面し、交通に便利で軍事上の地理条件にも優れている今張(当時)に拠点を移すことにしたと伝えられています。 高虎は慶長7年(1602年)に今治城の築城に着手し、2年後の慶長9年(1608年)にほぼ完成させました。当時の今治城は八町四方、約870メートル四方の規模を持ち、三重の堀に囲まれた本丸、二の丸、三の丸が設けられ、堀は燧灘から海水を引き込むように作られました。高虎は慶長13年までのわずかな期間居城しただけで、国替えの為伊勢に移りそのあとを養子の藤堂高吉(たかよし)が受け継ぎ、その高吉も二十数年後の寛永12年(1635年)に三重県の伊賀に移り、交代で松山藩主の弟、松平(久松)定房が三百万石をもって城主となり、松平氏は十代続いて明治を迎えました。 明治維新以降、明治6年(1873年)1月14日に明治政府において、太政官から陸軍省に発せられた全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)の廃城令施行前の明治2年(1869年)に廃城され、ほとんどの建築物が破却されました。 その後、今治市市制施行60周年記念事業として再建が計画され、昭和55年(1980年)に再建工事が完成し、五層六階の天守閣・多聞櫓・武具櫓などが再建されました。また、昭和60年(1985年)には御金櫓再建、平成2年(1990年)には山里櫓再建、平成19年(2007年)には鉄御門とそれぞれ再建が進み雄大な城郭の姿を見せています。

+続きを読む
音声再生
ポイント選択へ戻る