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琉球使節
江戸時代に琉球王国が薩摩藩によって侵攻された後の寛永11年(1634年)、将軍の代替りに際し、代替わりを祝うために江戸へ派遣することから、江戸上り(えどのぼり)と呼ばれた琉球国中山王府の慶賀使節である「慶賀使」と、琉球国王の世継ぎを承認して...
もらったことに謝意を示すための「謝恩使」から成る琉球使節の幕府への訪問は、幕末の嘉永3年(1850年)までの間に18回行われとされています。 その道中は「異国を支配する薩摩藩」および「異国からの使節の来訪を受ける幕府」を前面に出すことによって、両者の権威高揚に利用されたと言われています。江戸までの道中の往路は琉球を出発した後、薩摩、長崎を経て、下関から船で瀬戸内海を抜け大阪に上陸し、東海道を江戸へ向かい、帰路は大阪までは東海道を下り、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻るほぼ一年掛かりの旅であったとされており、瀬戸内海を抜ける際にこの鞆の地に必ず寄港・宿泊したとされています。 また、掲載の画像は天保3年(1832年)の琉球使節「江戸上り」の様子を描いた浮世絵で時の琉球国王は尚育王、将軍は徳川家斉で98人での江戸上りの様子を描いたものとされています。
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