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朝鮮通信使
鎖国時代の日本(徳川幕府)にとって、1392年から1897年にかけて朝鮮半島の国家であった李氏朝鮮(大韓帝国として1910年まで存続)は、正式な外交のある唯一対等な国家であり、将軍の代替わりや世継ぎの誕生の際には、朝鮮側から祝賀使節として4...
70人から500人の礼曹参議級の者と呼ばれる使節と、対馬藩からの案内や警護1500人ほどが江戸に派遣されていました。 通信使は、釜山から海路で対馬、壱岐に寄港していました。馬関を経て瀬戸内海に入り、鞆の浦、牛窓、兵庫などに寄港しながら大坂まで進み、大阪から淀までは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀からは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路で京都を経て江戸に向かうルートを取り、全行程には8ヶ月から10ヶ月もの期間を要して計12回の通信使が派遣されていました。しかし、1811年(文化8年・純祖11年)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶したとされています。鞆には計12回すべての通信使が立ち寄り、備後福山藩が接待に動員され、対潮楼に宿泊したとされています。
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