三次市
広島県の北部に位置し、広島県にある約九千もの古墳のうち、三分の一にあたる約三千もの古墳がこの三次市にあるとされ、この地で人々の足跡が見られるのは、約2万年前の旧石器時代に遡ります。中でも、下本谷(しもほんたに)遺跡、西酒屋町(にしさけやまち...
)で発掘された石器は、日本列島最古級と考えられており、弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が、弥生中期後半の最も古い例としてこの三次盆地にみられるなど、大変早くから開けた場所とされています。 江戸時代には、芸州広島藩四十二万石の浅野家の支藩に置かれ、播州赤穂の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)のもとに嫁いだ亜久里姫、後の「忠臣蔵」の瑤泉院(ようぜんいん)の実家としても知られています。市街の北西にある鳳源寺(ほうげんじ)には、彼女の打掛が寺宝として残され、境内には遺髪塚も現存しており、境内の枝垂桜(しだれざくら)は彼女を迎えに来た赤穂藩家老大石良雄、言わずと知れた大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が植えたものと言われています。 「三次(みよし)」の由来は、古代からの郡名によるもので、「水(み)」と古い朝鮮語で「村」を意味する「すき」があわさって「水村(みすき)」となり、その後「みよし」に転じたという説が有力とされています。あるいは、河川の集まる地という意味の「水寄(みよせ)」が訛ったとする説や、平安時代中期に作られた辞書である『和名抄』の三次郡の項目に見られる、「上次・播次・下次」の三郷を合わせて「三次」と呼んだとする説も考えられています。 また、標高490mに位置する高谷山展望台は神秘的な雲海を眺めることが出来る有名スポットです。
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