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福山 ②鞆の浦周辺

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鞆の浦の歴史

古来より鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、潮の流れが変わる処として、往来するほとんどの船が一旦この鞆の港に入り、次の引き潮まで待たなければならない 『潮待ちの港』 として栄えた場所であり、軍事的にも枢要の地でした。 南北朝時代には、現...

在の圓福寺の場所に大可島城が築かれており、鞆の浦沖から鞆にかけて、北朝と南朝との合戦(鞆合戦)が幾度もあり、大可島城に篭城していた南朝方の将兵達は、北朝方の攻撃により全滅したとされ、静観寺五重塔などの貴重な文化財も失われました。 戦国時代になると、備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は天文13年(1544年)に村上水軍の村上吉充に与えられ、本拠が大可島城に置かれました。その後、元亀4年(1573年)には織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が、毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しており、後の鞆城となる鞆要害が築かれ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏に替わって安芸国広島に入った福島正則が備後国をも領有すると、鞆城は城郭として大きく整備されることになりましたが、徳川家康の逆鱗に触れ整備は中止、取り壊されたと伝わっています。その後鞆城跡には奉行所(鞆奉行所)が設置されたことで、朝鮮通信使の寄航地にも度々指定され、鞆の浦の景色を「日東第一形勝」(朝鮮より東の世界で一番風光明媚な場所の意)と賞賛されました。 しかし航海技術が発達し、潮待ちを必要としなくなったうえに大型船舶が入港できないことや、沼隈半島の先端の立地であった為に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が通ることもないため、陸海の交通路から外れることになり、備後地方の港湾拠点は尾道に大きく傾いて行き、明治時代になると交通手段の近代化に伴い拠点性を失うこととなり、かつての繁栄を失うこととなりました。 その後、大正2年(1913年)鞆軽便鉄道が開通し、利便性は向上したものの、明治期に尾道が近代的港湾として大発展を遂げ、福山市は広島市に次ぎ備後地方で最大の都市となりましたが、鞆町は近代化の波から取り残されていきました。昭和初期には、尾道市や順調な発展を遂げる福山市から完全に取り残され、昭和31年(1956年)に市町村合併で福山市に編入され、福山市鞆地区となりました。現在では鞆港への商船の出入りは殆ど無く、連絡船、観光船、港内の造船所への入港を除けば、ほぼ漁港として利用されるのみで開発の波に飲み込まれることなく、古寺が数多く点在する古い街並みをとどめる要因にもなり、町全体が史跡として数多くの歴史的遺産を今に伝えています。

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