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能登原合戦(能登原古戦場)
寿永4年(1185年)屋島の合戦で、屋島を追われた平家武将で通称能登守教経と呼ばれた平教経(たいらののりつね)らの一団は、燧灘(ひうちなだ)を渡り鞆の浦に陣を構えましたが、さらに追われて能登原に陣を構えることになりました。源氏軍の、鞆の浦と...
田島内浦の二手からの挟み撃ちに合い、平家軍勝利を収め敗れた平家方は壇ノ浦へと落ち延びていきました。この時の合戦が能登原合戦と言われています。 『平家物語』巻第十一「嗣信最期の事」にも、「王城一の強弓精兵なりければ、能登殿の矢先に廻る者、一人も射落とせれずと云ふ事なし」と平家の豪腕であった能登守教経のことが記されています。 また『能登原』の地名も能登守教経にちなむとされています。
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